2017年03月

思い起こせば、正式に今の仕事をするまでにも、子供の頃からいろいろなカタチで作品?をハイシュツしてきました。
小学2年生の時に画いた水彩画。「想像上の海の中の生き物」カラフルな巨大魚を中心にライオンの顔をしたウミヘビや顔がたくさんある魚とか・・・・。
小学校卒業後も、額に入って廊下に飾られていた覚えがあるが、あの絵は、どこに行ったのでしょう?

中学3年生の時、何層もの色画用紙を重ねられたパネルをカッター(当時は小刀だったかもしれない)で、切抜き表現する技法で、かなり精密な置物のある風景を作ったパネル。
B4サイズぐらいの小さな作品でしたが、 今思うと、ステンドグラスの様に制作前に、緻密なデッサンと制作手順を計画しないと表現できないものでした。まるで、パズルを掘り出していくような作業が面白くて、夢中になって作りました。
出来上がって友人にプレゼントする予定の作品でしたが、提出後、どうなったのか?
当時、美術の教師だった佐々木ソウロク?先生から、満天に近い98点の成績は頂いたのですが、 結局手元に戻って来ませんでした。
そのころから、油絵や、リトグラフ風の作品を次々と画いては、乞われるままに、小額で売ったりしていました。
当然、申告はしていませんでした。

あの頃から、作品は手元に持っている趣味はなく、 出来上がると、満足して、「素敵!」とか「凄~い!」とか言われると嬉しくなって、「どうぞ!あげるよ。」て、そんな調子でした。

しかし、プロになって、お仕事を請け、搬入すると、正直な所それだけで嬉しくて満足はしているものの、次もまた作るために、お代金を 頂戴し、見積額が上がれば上がるほど、手間賃も材料代も、気にせずつぎ込める安心感から、益々もっと良いものが作れると、ワクワクしたものです。

困った事に、基本的な発想が、我が最愛の父と同じで、父は鉄鋼所を祖父の代から引き継いだのですが、設備機械やロボットなど、毎回初めて作る仕事をすのですが、研究開発費は自腹で、世の中にない良い物を作り、注文主が「すごく良いものが安く出来ました。有り難う!」と、喜んで頂けるだけで満足で、会社としての利益をあげ利潤を追求し、社内や家族に還元し、税金によって社会貢献すると言う、企業のトップとしての資質などは全く無く、先代から引き継いだ、土地をどんどん失って行き、会社を閉める事になりました。

私は、建築空間の中で、もっと表現できる可能性を訴えたくて、(都市に綺麗な場面をたくさん作りたいだけで)1992年に大阪中之島の公会堂で、提案型の大掛りな個展を開き、次のステップに進もうとしたのですが、タイミングが悪く、バブル崩壊の年となり、日本中の空気が抜けた様になりました。
そこから、注文以外に緻密で絵画的な作品を作るようになりました。(インターネットで海外向けに、浮世絵シリーズを作り始めました。)1992年当時、例によって、ちょっと?いや、かなり早すぎた発想でした。

ネット環境もまだ定まらず、デザイン制作用にマックを買い、大変高価なソフトとスキャナーとショウカ型プリンターで、大型高級輸入車並みのお代金がかかりました。


20年程前から、 ステンドグラスの表現力の可能性を追求し始めました。

そして2003年、神戸進出と同時に左目失明の事故から、 益々、利益ではなく、内なる美の追求が
(カッコ良く言えばそうですが、左目が開かず、顔面を強打した後遺症が取れず、人前に出たくなくなったのが要因としては大きいのですが)自分にとっての存在理由になっていました。

で、そのころ作り始めた作品が、今、販売を始めました。
作りたくて!あるいは、いろいろな理由で作品の展示を頼まれた事がきっかけで、作らせてもらった作品です。

その時も、販売する事を対象に考えてい た訳でなく、ちょっと、やり過ぎ感があるとか、どこまでかけるの?っと、問いたくなるような、手間も素材も盛りだくさんで、値段の付けにくい作品たちです。

そんな作品たちも、これまでは人目にふれるチャンスすらあまり無かったのですが、このところ、身近な人たちの間で、購入が相次いでいます。
購入して頂いた方々が「本当に素敵!」「陽の当たり方で表情が変わるってこういう事なのね」などなど、喜んで頂く事がとても嬉しく、ステンドグラスの魅力をお届けできたことを喜んでおります。


そうそう、プロになって行方不明になった作品が、数点あります。
20年以上前に、大阪の大型水族館の隣にマーケット・プレィス?だったでしょうか、マリンショップに展示販売していたお魚関係の、ランプと絵画的なお魚モチーフの作品が、ショップ共々消えてしまいました。

お魚の形をしたランプが海藻のスチールランプ台に泳いでいるような作品と金色のアロアナとニジマスの額装作品が、行方不明のままです。

プロになって35年間に、数知れず制作して来ましたので、沢山の作品がそれぞれの所で輝き、多くの方々の目を楽しませて居てくれることを望むばかりです。
 

先日インターネットラジオで、「芸術家の北條日出子さん」と紹介して頂き、改めて世間的に言って、「芸術家」と言う響きが、いかに怪しそうに感じるか、と言うことに気が付きました。

まして、自称芸術家って、どんだけ まっとうには 見えないか!いや、聞こえないのか?

長年、私の肩書は、ステンドグラス作家であり、スタジオ・デコの代表者であり、代表作家でした。

建築の中で仕事をしている時は、スタジオ・デコの北條で、周りの反応は女性経営者であり、営業担当だと、認識されていたようでした。ですから、デザインも、制作も、現場取付けもすべてするとは、思ってもいない様子でした。
たまに、作業着を着て作っている姿を建築会社の人が見て、不思議そうに思われたようです。

その他、日本文芸家クラブや、その他の会でも、ステンドグラス作家として紹介されていました。
ただ、ステンドグラス作家と紹介されますと、ランプやかわいいオーナメント等を作る人のイメージで、自分が思う事と、かなりかけ離れたイメージなので、説明しにくく、そうではないと、否定的な事ばかり言うのも、相手にいやなイメージが、残ってはと、だんだんステンドグラス作家と言うのが嫌になっていました。

では、自分は何者なのか?と、考え「空間アーティスト」と、唱えた時もあります。
これもまた、わかりにくい様で、「建築空間にアート的な表現をします。」と、言ってみても、益々分かりにくい様で、「一般的な芸術家です。」と言う表現に落ち着きました。

でも、これも世間に名前がもっと出ていないと怪しい人になってしまう。
実際、いろいろな仕事をして来ました。

例えば、大阪梅田東通商店街のカラー舗装デザイン。東成区役所内「ふれあいパンジー」の空間レイアウトと窓にはステンドグラスの制作。駅構内の店舗に、西陣の帯地を使ったレリーフや、梅田の地下街の店舗に大理石と金属とブラックミラーを使った地球から見た1日の宇宙をテーマにしたレリーフや、薬屋さんの店舗ビルのエントランスに石と金属とガラスを使った薬をイメージしたレリーフなど、ステンドグラスだけでは表現できない事、いや、適材適所がそれぞれにあります。

確かに、もとはステンドグラスの工房を立ち上げたのが、きっかけでした。

柔らかい光がさす、綺麗で、居心地の良い空間が作りたかったのです。
その場所にいるだけで、心が喜ぶような、爽やかな陽の木漏れ日とか、寒い日の風のない梅の香がするような陽だまりとか、満開の桜並木や、キラキラと流れる清流や、雨上がりの紅葉等の雰囲気を、自然の無い都会に表現したかったのです。

その表現手段の一つとしての、ステンドグラスでした。

昨年、都会の幼稚園の2階に、コスモスの群生を作りました。そこには昆虫たちがいて、優しい光がさし、一日の陽の移り具合により、変化していきます。

昨日、テレビで菜の花がいっぱい咲いている淡路島の映像が映りました。
1995年頃、広大な敷地で、一年中のお花畑を表現出来ないか?と言う仕事の企画が入りました。
当時、出たてのデジカメを下げて視察に行った事が有りました。
結局は、当時有名な建築家のお仕事になったようです。

お仕事も、適材適所だとして、私は建築家に成るべきだったのか?と考えた事もありますが、自分が思う空間に対する直球はやはり、時間がかかった事だろうし、日本の建築業界を考えますと、当時女性で好きな建築が出来る様になるには、もっと難しい環境だったかもしれません。

実際、同世代の女性建築家は、海外での活動が、多いようです。
かなり遠回りはしましたが、そういう枠に入らないからこそ、これからの提案が出来るようにも思います。



 

一昨日の夕方、親戚でもあり友人でもあるキミちゃん(同い年の60歳既婚女性で孫2人)から電話があり、
「明日空いてる?インターネットラジオに出てほしいねんけど!」
「ちょうどまるまる空いてるよ!」と私。
「そしたら、友達の担当者のTさんから詳しい事電話してもらうね。」 

「初めまして、Tです。急なお願いで申し訳ありませんが、明日12時半に新大阪に来ていただけます?その時に思い出の曲を紹介したいのでCDを2枚お願いします。」 

で、快諾したものの、喋りはどうにでも平気だが、CDが問題で、一つはストラビンスキーの「火の鳥」でいいのだけれど、もう一曲を何にするかを考えた時、「お能」が浮かんだ。
2010年に大阪南港ATC で、個展を開いたときにテーマの一つに「お能の世界」を表現したくて、「船弁慶」から「静か御前」の作品を作りました。この作品は大阪能楽会館に有ります。
制作風景から当時神戸元町の芸術家展に出品する様子が当時テレビ東京で紹介されました。

それで、突然のことで当然手元に無く、数年ぶりにお能の資料などでお世話になった能楽師の大西礼久 氏にお電話でお能のCDをお借りしたいとご連絡しました。残念ながらDVDかカセットテープしかないとの事でした。

結果 、曲の紹介の時間もあるので、「火の鳥」の中から「カスチェの戦い」と「終曲」部分をかけました。
放送日は、3月22日の午前9時と12時と21時と24時 だそうです。
ゆったリンクあるいはソウルポートラジオでマダムこと寺尾さんとのお話でした。
芸術家の北條日出子さんと紹介していただき、取り留めもなく「火の鳥」や子供のころのエピソードを話してきました。

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一般的に商品には、適正価格がありますよね。

私たちが仕事の依頼を受けると、見積書を提出します。

仕事を初めて1年目の頃、三十数年前の事ですが、設計事務所から指定業者として紹介され、ステンドグラスを新しいマンションに入れる事になり 、入札で決まった建築会社に初めて打合せに行った時の事を思い出します。
当時、まだ20代後半の、ウラワカキ乙女?の頃、40代くらいの建築会社の積算課の課長との会話、
 
 課長 「今回のステンドグラスですが、いくらになりますか?」
 私  「ハイ?お見積りを送らせて頂きましたとおりですが!?」
うちが送った資料を手にしながら、そこにはちゃんと見積書が有るのですが、
 課長 「いや、ですから、ネットはいくらですか?」

 私、・・・・・何のことやろ?ネット?この人は、ステンドグラスの事を知らずにネット(網?)で組んだ中に色ガラスをはめるか流し込むかと思ってはるのやろか?
 
 私  「ネットは使いません。」
 課長 「うちも予算の70%で受けた仕事ですから、そのままの値段では、困ります。
     御社の見積額の60%でお願いしたいのですが!」
 私  「ええ!40%も値引きしますと、作品は出来上がりません。材料代が丸丸赤字になります。」
 課長 「しかし、うちも70%で受けた以上、損は出来ないので、ステンドグラスは、うちの工事より
     外して頂く事になります。」

後日、70%で何とかおさめ、仕事を受けました。
ネットとは網でも、ざるでもなく、金額を出来るだけ振り落とし最後に残った金額の事を言うらしく、最初から余分な金額が入っていない、正味の金額を書いていた私が学習したことでした。

その後も、建築会社によっては、指定業者で図面上にスタジオ・デコの名前も連絡先もデザインが有っても、他社(偽物本当のステンドグラスではないところも含めて)に、相見積もりをとり、少しでも安いところえと、すり替えてしまう場合があり、そうなると、安っぽく全然違うものに成ってしまうことがあります。
その後は、必ずオーナー様(施主)に、直に紹介して頂く事にしました。

当初は、建築物にステンドグラスがはまる事は一般的に大変珍しい事だったため、公共事業や豪邸など限られたところが多かったためか、中小の建築会社では、ほとんど扱われていなかったようです。

言い換えると、逆パターンもありました。
三十数年前、ステンドグラスの設計単価は、1平米60万円でした。そして、複雑な作家物で1平米100万円ぐらいでした。(スーパー大手ゼネコン関係者からの情報)
しかし、ステンドグラス工房の平均単価は、普通のステンドグラスで1平米20万円、高級材料を使って平米30万から35万円でした。

30年程前に、あるスーパー大手ゼネコンより仕事を頂き、高級ガラスを使い見積もった金額が、平米35万円で出しましたところ、なかなかデザインで了解が取れず、何度も書き直しを言われました。せっかく頑張って画いているのに、なかなかオッケーがもらえず、現場からは、まだかと毎朝文句の電話がかかり、別にうちが悪い訳では無いのにと思い、少し腹立ちまぎれに、いつもの倍の見積もりを書きました。
すると、一発でデザインが決まり、追加注文まで頂きました。
気に入らなかったのはお値段が安すぎたからだったのです。
良いものは、高いとの認識が有る事に気が付きました。
それと、ステンドグラス工房の営業形態にも、問題が有りました。
老舗の工房がそんなに数が有る訳でもなく、大型のステンドグラスのデザインが工房で画かれる事も少なく、キリスト教教会では、宗教画家が下絵を描かれたり、デザインと制作費が分かれている場合が多かったのです。





 

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