昨年の6月末に、ステンドグラス工房の作家として、一つの大きな仕事が終了しました。
今から31年程前、まだ工房が大阪市南区の島の内にあった頃からのお話です。

当時、独立して半年目に、大阪南のど真ん中道頓堀とソエモン町の東面、堺筋に面して60坪三階建ての建物の1階に工房が有りました。
入り口はショーウィンドが有りガラス張りの自動扉が付き、当時一坪7000万円とも言われたバブル直前の頃です。周辺には怖い事務所がたくさんあり、前の道には装甲車が止まっていました。

実家を出て、注文も収入もない、 いよいよ食べるものも無くなろうかと言うとき、一件の注文が入り、独立後初めての仕事が決まりました。

しかし、半年の有余で安く借りていた東住吉区のしもた屋も、建て替えのために出なければいけなくなった時で、次の工房の場所を探さねばならなくなり、住居と工房の両方を探していた時の事です。

状況が、3年前とかぶりますが、20代の頃とアラカン(アラウンド還暦) では、世間の反応もキャリアも違うのですが、あの頃は「神風が吹いた!」と言うのでしょうか。

その、一等地の古ビルに入る事が出来ました。不法侵入した訳ではありません。
たまたま、そのあたりを大規模な開発を考えた東京のデベロッパーが、「地上げ」を しかけていました。
その、管理をまかさせれていた設計事務所が知り合いで、独立当初から、お世話になっていましたところ、「どこか、工房に使える場所は無いでしょうか?お金は無いけど、これから頑張ります。」と、お願いしましたところ、「2~3年ぐらいやったら、空いてる場所が有るので、使いますか?」と鍵を渡されたのが、大阪市南区島内?-15-16(現在は住所が中央区でしょうか。)今、思えば無茶な話です。
さて、仕事場は決まったので、近所に住居を探し不動産屋さんに行き、「どんな所でも良いので、安いお部屋をお願いします。」と言って、近くのワンデーケーを借りました。「お見かけしたところ、お嬢さんには、家主さんも、ちゃんとした所でないとね。」と、南船場で4階建の3階で、昼間でも、電気をつけないと真っ暗なお部屋でしたが、それなりに、快適でした。
直ぐ階下の2階が、おかみ一人の小料理屋さんで、可愛がって頂きました。

前振りがかなり長くなりましたが、その後30年間お世話になり、私の代表作であり、修行となる作品作りに出会えました。 

思い起こせば、正式に今の仕事をするまでにも、子供の頃からいろいろなカタチで作品?をハイシュツしてきました。
小学2年生の時に画いた水彩画。「想像上の海の中の生き物」カラフルな巨大魚を中心にライオンの顔をしたウミヘビや顔がたくさんある魚とか・・・・。
小学校卒業後も、額に入って廊下に飾られていた覚えがあるが、あの絵は、どこに行ったのでしょう?

中学3年生の時、何層もの色画用紙を重ねられたパネルをカッター(当時は小刀だったかもしれない)で、切抜き表現する技法で、かなり精密な置物のある風景を作ったパネル。
B4サイズぐらいの小さな作品でしたが、 今思うと、ステンドグラスの様に制作前に、緻密なデッサンと制作手順を計画しないと表現できないものでした。まるで、パズルを掘り出していくような作業が面白くて、夢中になって作りました。
出来上がって友人にプレゼントする予定の作品でしたが、提出後、どうなったのか?
当時、美術の教師だった佐々木ソウロク?先生から、満天に近い98点の成績は頂いたのですが、 結局手元に戻って来ませんでした。
そのころから、油絵や、リトグラフ風の作品を次々と画いては、乞われるままに、小額で売ったりしていました。
当然、申告はしていませんでした。

あの頃から、作品は手元に持っている趣味はなく、 出来上がると、満足して、「素敵!」とか「凄~い!」とか言われると嬉しくなって、「どうぞ!あげるよ。」て、そんな調子でした。

しかし、プロになって、お仕事を請け、搬入すると、正直な所それだけで嬉しくて満足はしているものの、次もまた作るために、お代金を 頂戴し、見積額が上がれば上がるほど、手間賃も材料代も、気にせずつぎ込める安心感から、益々もっと良いものが作れると、ワクワクしたものです。

困った事に、基本的な発想が、我が最愛の父と同じで、父は鉄鋼所を祖父の代から引き継いだのですが、設備機械やロボットなど、毎回初めて作る仕事をすのですが、研究開発費は自腹で、世の中にない良い物を作り、注文主が「すごく良いものが安く出来ました。有り難う!」と、喜んで頂けるだけで満足で、会社としての利益をあげ利潤を追求し、社内や家族に還元し、税金によって社会貢献すると言う、企業のトップとしての資質などは全く無く、先代から引き継いだ、土地をどんどん失って行き、会社を閉める事になりました。

私は、建築空間の中で、もっと表現できる可能性を訴えたくて、(都市に綺麗な場面をたくさん作りたいだけで)1992年に大阪中之島の公会堂で、提案型の大掛りな個展を開き、次のステップに進もうとしたのですが、タイミングが悪く、バブル崩壊の年となり、日本中の空気が抜けた様になりました。
そこから、注文以外に緻密で絵画的な作品を作るようになりました。(インターネットで海外向けに、浮世絵シリーズを作り始めました。)1992年当時、例によって、ちょっと?いや、かなり早すぎた発想でした。

ネット環境もまだ定まらず、デザイン制作用にマックを買い、大変高価なソフトとスキャナーとショウカ型プリンターで、大型高級輸入車並みのお代金がかかりました。


20年程前から、 ステンドグラスの表現力の可能性を追求し始めました。

そして2003年、神戸進出と同時に左目失明の事故から、 益々、利益ではなく、内なる美の追求が
(カッコ良く言えばそうですが、左目が開かず、顔面を強打した後遺症が取れず、人前に出たくなくなったのが要因としては大きいのですが)自分にとっての存在理由になっていました。

で、そのころ作り始めた作品が、今、販売を始めました。
作りたくて!あるいは、いろいろな理由で作品の展示を頼まれた事がきっかけで、作らせてもらった作品です。

その時も、販売する事を対象に考えてい た訳でなく、ちょっと、やり過ぎ感があるとか、どこまでかけるの?っと、問いたくなるような、手間も素材も盛りだくさんで、値段の付けにくい作品たちです。

そんな作品たちも、これまでは人目にふれるチャンスすらあまり無かったのですが、このところ、身近な人たちの間で、購入が相次いでいます。
購入して頂いた方々が「本当に素敵!」「陽の当たり方で表情が変わるってこういう事なのね」などなど、喜んで頂く事がとても嬉しく、ステンドグラスの魅力をお届けできたことを喜んでおります。


そうそう、プロになって行方不明になった作品が、数点あります。
20年以上前に、大阪の大型水族館の隣にマーケット・プレィス?だったでしょうか、マリンショップに展示販売していたお魚関係の、ランプと絵画的なお魚モチーフの作品が、ショップ共々消えてしまいました。

お魚の形をしたランプが海藻のスチールランプ台に泳いでいるような作品と金色のアロアナとニジマスの額装作品が、行方不明のままです。

プロになって35年間に、数知れず制作して来ましたので、沢山の作品がそれぞれの所で輝き、多くの方々の目を楽しませて居てくれることを望むばかりです。
 

先日インターネットラジオで、「芸術家の北條日出子さん」と紹介して頂き、改めて世間的に言って、「芸術家」と言う響きが、いかに怪しそうに感じるか、と言うことに気が付きました。

まして、自称芸術家って、どんだけ まっとうには 見えないか!いや、聞こえないのか?

長年、私の肩書は、ステンドグラス作家であり、スタジオ・デコの代表者であり、代表作家でした。

建築の中で仕事をしている時は、スタジオ・デコの北條で、周りの反応は女性経営者であり、営業担当だと、認識されていたようでした。ですから、デザインも、制作も、現場取付けもすべてするとは、思ってもいない様子でした。
たまに、作業着を着て作っている姿を建築会社の人が見て、不思議そうに思われたようです。

その他、日本文芸家クラブや、その他の会でも、ステンドグラス作家として紹介されていました。
ただ、ステンドグラス作家と紹介されますと、ランプやかわいいオーナメント等を作る人のイメージで、自分が思う事と、かなりかけ離れたイメージなので、説明しにくく、そうではないと、否定的な事ばかり言うのも、相手にいやなイメージが、残ってはと、だんだんステンドグラス作家と言うのが嫌になっていました。

では、自分は何者なのか?と、考え「空間アーティスト」と、唱えた時もあります。
これもまた、わかりにくい様で、「建築空間にアート的な表現をします。」と、言ってみても、益々分かりにくい様で、「一般的な芸術家です。」と言う表現に落ち着きました。

でも、これも世間に名前がもっと出ていないと怪しい人になってしまう。
実際、いろいろな仕事をして来ました。

例えば、大阪梅田東通商店街のカラー舗装デザイン。東成区役所内「ふれあいパンジー」の空間レイアウトと窓にはステンドグラスの制作。駅構内の店舗に、西陣の帯地を使ったレリーフや、梅田の地下街の店舗に大理石と金属とブラックミラーを使った地球から見た1日の宇宙をテーマにしたレリーフや、薬屋さんの店舗ビルのエントランスに石と金属とガラスを使った薬をイメージしたレリーフなど、ステンドグラスだけでは表現できない事、いや、適材適所がそれぞれにあります。

確かに、もとはステンドグラスの工房を立ち上げたのが、きっかけでした。

柔らかい光がさす、綺麗で、居心地の良い空間が作りたかったのです。
その場所にいるだけで、心が喜ぶような、爽やかな陽の木漏れ日とか、寒い日の風のない梅の香がするような陽だまりとか、満開の桜並木や、キラキラと流れる清流や、雨上がりの紅葉等の雰囲気を、自然の無い都会に表現したかったのです。

その表現手段の一つとしての、ステンドグラスでした。

昨年、都会の幼稚園の2階に、コスモスの群生を作りました。そこには昆虫たちがいて、優しい光がさし、一日の陽の移り具合により、変化していきます。

昨日、テレビで菜の花がいっぱい咲いている淡路島の映像が映りました。
1995年頃、広大な敷地で、一年中のお花畑を表現出来ないか?と言う仕事の企画が入りました。
当時、出たてのデジカメを下げて視察に行った事が有りました。
結局は、当時有名な建築家のお仕事になったようです。

お仕事も、適材適所だとして、私は建築家に成るべきだったのか?と考えた事もありますが、自分が思う空間に対する直球はやはり、時間がかかった事だろうし、日本の建築業界を考えますと、当時女性で好きな建築が出来る様になるには、もっと難しい環境だったかもしれません。

実際、同世代の女性建築家は、海外での活動が、多いようです。
かなり遠回りはしましたが、そういう枠に入らないからこそ、これからの提案が出来るようにも思います。



 

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